稼ぐ英語ガイドになる! 職業英語ガイドという夢が実現 諦めたらそこで試合終了
はじめまして、ゆういち@lifeasaguide93と申します。life-as-guideのブログにあそびにきていただきありがとうございます!
北海道江別市に住んでいます。生まれは北海道、道東の釧路です。英語通訳ガイドとして働きたいと20代半ばくらいに思い立ち、紆余曲折がありながらも、なんとか夢をかなえたアラフォー男です。(2021年1月現在コロナ禍に負けず諦めず生き延びています)
趣味は旅行、食べる事と温泉巡りが好きです。海外旅行の添乗員時代に訪問した国々の旅行記を Compathy Yuichi KudoでUPしています。ご興味があれば是非見てみて下さい。仕事とはいえ、60か国以上は訪問しました。
添乗員時代に現地ガイドさんの仕事っぷりに感銘を受けたことが、私の今の仕事のきっかけです。それから、私がガイドを本職とするまでに約10年かかりました・・・
私は守らなければならない家族がいるため、安定した職を失うことができず、大きな博打を長年打つ勇気がなかったというのが理由ですが、結局のところ自分の気持ちには嘘がつけず、納得できる仕事を求めて彷徨い続け職を転々としました。
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ここがまず人生の大失敗でした笑
ただ、今だからこそ、その経験のおかげで様々なスキルが身に付き、それら全てが今の仕事で活きているので良しとしています。
恐らく、仕事を変えながらも選ぶ基準としてガイドへのステップアップみたいな気持ちが無意識にあったのかもしれません。
今振り返ると、私は以下のようなことを、いろいろな業種で働きながら学んできたのだと思います。
・添乗スキル
・国内&海外の地理・歴史
・基本的なPCスキル(Word, Power point etc. )
・英語力(主にスピーキング)
・営業スキル(ビジネスに関してのこと全般)
・マネジメントスキル
・英語ガイドスキル
・北海道の旅行会社、派遣会社とその周辺の情報
このブログでは、私のこれまでの仕事経験&失敗談等をみなさんにお伝えします。私と同じような夢を持つ皆さん、是非諦めないでください!私のブログが一人でも多くの方を勇気づけられたらと祈っています。
- 毎日が修行の海外旅行会社勤務&添乗時代
- 英語を教えるって難しいと感じた英語教員時代
- 勇気を出し決断、そしてすぐ挫折 東京でのインバウンド旅行会社&ガイド時代
- 北海道に戻っての添乗派遣会社時代
- 会社員なんてやってられるか!英語通訳ガイドとして独立
- まとめ
毎日が修行の海外旅行会社勤務&添乗時代
私は大学卒業後、札幌で旅行会社に就職しました。大本命の会社に内定をもらえたのです。なぜならば、その会社はなんといっても社員が海外添乗を担当するということでした。
就職活動の際、添乗員という職に魅力はあり調べましたが、どこを見ても、収入は最低賃金、安定しないという情報しかでてこなかったため、半ばあきらめていました。
しかしながら、私が就職した会社は旅行会社の会社員として働きながら海外添乗員もできるという会社でした。
素晴らしい条件!
しかし!!!
現実はそんなに甘くありません。 私の能力はとにかくひどく最下級でした。とにかく全てができなかったです。例えば
1. 目上の人に対する日本語がきちんとできていない
2. 普通は5分でできるメールの簡単返信作業が30分かかる
3. お客様へ向けたDM準備作業が通常20分のところ50分かかる
4. 営業電話でお客様が獲得できない
※集客のため毎日残業をしネバって営業電話をかけ続ける
毎日が修行という名の拷問でした。もちろん長く働いても働いた分だけ残業代が出たかとうとでません。
それも仕方ありません。なぜならば、私の仕事は労働対価に労働力が追い付いてないのですから。
一日、ひたすら上記のような営業活動をした後に、終礼後自分がアサインされた添乗業務について準備していました。
例えば、
1. 行く国について最低限の情報を調べる(現地の気温、持ち物、特別な注意事項等)
2. お客様に出発前のご挨拶の電話と集合場所、現地情報の案内
3. 現地の地理&歴史を勉強
4. 必要な書類を準備
5. 荷造り
たまに準備にエンドレスで時間がかることもあり終電を逃し朝方まで準備ということも(特にヨーロッパの準備)
きつかったですが、今私が世界の地理・歴史に詳しいのは全てこの時の経験のおかげです。一切の後悔はありません。
むしろ、ただで海外に行ける&給料がもらえる、そして現地でトラブルが起きても会社がなんとかしてくれるという命綱がありました。
苦労の毎日でしたが充実した日々が続き、気が付けば私の海外添乗スキルはマスターレベル、どこに行っても大丈夫なくらいに成長することができました。
いまだに、この会社でまた働きたいと考えることもあります。私の社会人の基礎を育て上げてくれ、多くの海外経験を与えてくれた会社に感謝してもしきれません。
しかしながら、私は転職の道を選びました。私の当時の生活は1ヵ月に2週間~3週間は海外添乗、そして帰国後も、会社で日々残業、帰宅は22時というでした。
当時、子供も小さくもっと家族と一緒に過ごしたいと思ってしまったのです。その後は日々の激務を消化しながら教員採用試験の勉強をし続け、3度目の試験でやっと合格。転職が決まりました。
英語を教えるって難しいと感じた英語教員時代
三度目の正直で教員採用試験に合格し、勤務地がどこになるかドキドキしながら北海道教育委員会からの連絡を待つこと約5ヵ月、なんと結果は釧路!
地元だ!
しかしながら、喜ぶのも束の間、私の勤務校は釧路でも有数の教育困難校でした。詳細は割愛しますが、高校生にアルファベットの書き方から始まりBe動詞の説明という感じでした。
ゲームオーバー
しかし!私は諦めませんでした。私はいろいろな研修会に参加し、文部科学省から求められる英語で英語を教えるという指導法を教育困難校でめげずに実践していました。
とりあえず、生徒は基本反応が悪いので、ゲーム要素を取り入れながら、何とか生徒を動かしていくという方法です。
学校の方針で各教員はのびのびとレッスンプランをつくれましたので、私はよく自分の海外経験をパワーポイントでプレゼンしながら英語を教えていました。
日々、生徒が何に興味を示すかを考え、いかに生徒を授業に食いつかせるかとプランをつくることに必死でした。教員2年目からは担任も持ち、40人の生徒と過ごす時間が多くなり仕事もとても充実していたのですが、何かの拍子にどこか物足りなさを感じるようになってしまいます。
旅に出たいと思ってしまったんですよね。
家族には内緒で小遣いをコツコツと貯めて、フランスのワインマラソンに出たり JICA主催の国際理解教育プロジェクトに参加しバングラデシュに行ったりしていました。
さらには、海外添乗員時代に考えたいずれは英語通訳ガイドになりたいという気持が再び大きくなってしまいました。通訳案内士の資格(2021年現在では全国通訳案内士)を取得すべく動き出してしまいました。
受かりました。受かってしまったのです。そして、私は暗黒の時代へと落ちていきます。もちろん、今は全く後悔していません!
勇気を出し決断、そしてすぐ挫折 東京でのインバウンド旅行会社&ガイド時代
100人に聞いたとして、全員が「おまえバカだ」と言われることをしました。
3年越しの苦労をして教員採用試験に受かり教師になったにも関わらず、その職を手離し英語通訳ガイドになるという奇跡のジョブチェンジ。しかも北海道を離れて東京へ。これを許してくれた妻にはいまだに感謝しています。
東京の旅行会社で、そこの専属英語通訳案内士という立場で、ほぼ毎日、築地、銀座、浅草周辺でガイディングをしていました。
けっして自惚れではありませんが、東京でガイディングをする中でまず思ったことが「オレの語学スキル、知識&添乗能力、十分通用するんじゃね!?」でした。
長い修行をした添乗員時代、必死に勉強した通訳案内士試験、経験最高!そして、もう一つ驚きだったのが、外国人ゲスト達の間で北海道の知名度が十分高かったということです。これは当時の私にとって驚きでした。
なぜならば・・・
通訳ガイドとして働く = 北海道では稼げない = 東京or京都で単身
という等式が私の中で当たり前になっていたからです。
そして約1ヵ月半東京でガイディングをし、私の中で北海道でも稼げるという確信が生まれました。
正直なところ、東京生活に対する私の様々な不適応もありましたが、結局北海道に帰ることに。しかし!
引き続きチキンだった私は、北海道に戻りいきなりガイドとしての独立は考えれなかったのです・・・添乗派遣会社に就職しました。
北海道に戻っての添乗派遣会社時代
北海道に戻り、添乗派遣会社の営業職につきました。経済的に不安定なことは覚悟の上、添乗員として働くつもりでしたが、私の過去のキャリア(旅行会社勤務&過去の海外添乗経験)が認められ、会社から営業職を提案されました。最終的に社員待遇という甘美な響きに負けてしまいました・・・
私の日々の業務は以下のようなものがありました。
1. 対旅行会社との連絡窓口
2.旅行会社から添乗員を派遣できるツアーをもらう(営業)
3. 添乗員&外国語ガイドをツアーにアサイン
4. 添乗員&外国語ガイドの育成
5. 添乗員&ガイドのツアー前準備のヘルプ
6. 添乗員&ガイドのツアー後精算業務のヘルプと指導
、
就職してしばらくして・・・ん?
まったく自分がツアーに出られない・・・というか、「J○B様」、「トラピ○○ス様」からの受注ツアーがありすぎて添乗員が足りない、どうしよう・・・
こんなことばかりでした。仕方ない!自分で行こう!と思っても、私が会社を不在にすると、添乗員の準備、ツアー後の精算業務等、いろいろと滞ることがあったため、ツアーには基本出られず。
そんな悶々とした日々を送っていました。
会社員なんてやってられるか!英語通訳ガイドとして独立
オフィス勤務の際は、毎日のように何かトラブルが起こったていたため、私の頭が少しおかしくなりそうになっていました。
例えば・・・
1. 何かのドラマを日々持ち帰る、私の愛おしい添乗員さんたちへの対応
2. 上記に付随する旅行会社への対応(謝罪含む)
3. 旅行会社から受注するツアーが多すぎて回しきれないという永遠の課題
※人がいないのにツアー返却を拒否する旅行会社も存在(ローカルルール)
4. 添乗精算業務の確認と訂正(苦手な人がいるとヘルプで1日つぶれたことも)
5. ツアーアサイン済み添乗員&通訳ガイドの突然の病気or負傷
などなど、このような対応に日々追われ、もはや私がツアーの添乗&ガイドででることは年間ほぼ0に。
そして、休みの日にも鳴り止まない愛おしい添乗員さん達からの電話・・・ ツアー引き継ぎのために土日も営業所を開けなければならず、土日、自宅より事務所にいる割合の方が多くなっていたり・・・
プチ・・・ 何かが切れた音が。
ダメでした。ガイドしたーい!!添乗したーい!独立を決意しました。
最初は、全てから解放された気分でした・・・その後、襲ってくる恐怖と不安・・・家族はどうなる?本当に稼げるのだろうか?
もちろん、そのつもりでしてきた準備が全て整ったので独立を決めましたが、やはり怖いものでした。最初の一歩の勇気が。
それからは、派遣会社時代に立ち上げ済みの自分のHP, ガイドマッチングサイト等を更新し成長させたり、SNSを駆使し集客したり、税務署いったりと毎日がバタバタと過ぎていきましたね。
私のこれまでの人生上、経験のないプレッシャーとストレスで押しつぶされそうになりながらも、最初の1年はがむしゃらに働きました。収入はお蔭様で公務員時代、会社員時代よりも多く稼ぐことができました。
2年目に、さすがに自分の働きすぎを家族から咎められ(私的にはガイド業はゲストと遊んでいるという感覚なので働きすぎている気はしない)無理のないスケジュールを組むようにし、現在に至ります。
お蔭様で現在も安定してガイド業で生計をたてており、家族で暮らすには十分な金額を稼がせていただいております。(2021年現在はコロナ禍の影響により、もちろん減収。しかしながら不屈の精神で、あれやこれやと生き延びています。)
まとめ
以上、今回は私の自己紹介、経歴についてでした。私は夢を実現するまでに約10年かかりました。長いですよね・・・
しかしながら、今ではやりたいことを仕事に稼がせていただいています。ゲストと北海道中を旅し、感動を与えるべく日々尽力しています。私には今以上の仕事はこの人生でありません。
(※2021年1月現在、コロナ禍で外国人相手のガイドビジネスは悲惨な状況です。しかしながら、私は改めて過去に自分で書いたブログを読み現在更新しています。自分の行いに後悔はありませんし、こんな事態があと何年も続くことはありえません。また元気にガイドができることを祈り、生き延びます。)
私のブログに興味がある皆さんは、私を是非反面教師にして下さい。そして、適宜私発信する情報を参考にしながら、各人がそれぞれの最短ルートをつくってください。皆さん、応援しています!
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